BOACコメット号  DH106 型機

1952年7月 羽田に飛来
                                                          
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 第2次世界大戦後、旅客機のジェット機化を目指し、他国に先駆けて英国デハビランド社はDH106型
機を製作しました。そのプロトタイプは1949年7月試験飛行に成功し、世界最初のジェット旅客機になり
ました。この時点では、ボーイング社、ダグラス社も旅客機のジェット機化は未だ先のことだったのです。
 その意味では英国は先見の明があったといえるでしょう。

 この機体が、今のジェット機と外観上大きく違うのは、ジェットエンジンが主翼内に埋め込まれていたこ
とです。ボーイング747などのように、エンジンが主翼からポッドで吊り下げられる構造ではありません。
このため、一見するとエンジンが何処にあるか判りません。

 DH106型機のテストフライトは順調に進み、1952年5月、世界で初めて英国海外航空会社BOACが
ジェット旅客機による定期路線をロンドンと南アフリカ、ヨハネスブルグ間で開始しました。
 更に、その年の7月、コメット号によるロンドン・東京路線開設のテストフライトのためコメット号が初め
て日本の空に飛来し羽田空港に着陸しました。


羽田空港に飛来したBOACコメット号
 その当時、戦争中からの飛行機ファンで、未だ大学生だった私は、新聞でこの来日を知って、羽田に
コメット号を見に行ったのです。その当時、羽田空港は確か未だ平屋建てで、エプロンまで簡単に入れ
たと思います。この写真を写したときも、エプロンまで入って写真を写すことができたのです。フェンスの
こちら側にいる人達は、私と同様一般の人や記者達だろうと思います。
 フェンスの向こう側には警戒のGI(米軍人)や関係者がいるようです。右端にはBOACのジャンパーを
着た人が二人写っています。コメット号の垂直尾翼に書いてある識別符号は「ALYP」と読めます。


歓迎の花束を持ってターミナルビルに入るコメット号のクルー

 2枚目の写真は、コメット号のクルー(写真では5名)が、歓迎の花束を受け取りターミナルビルに入る
直前の写真です。バックに、当時のターミナルビルの一部が写っています。
 この写真でわかる様に、まるで木造モルタル風の、今から思えばターミナルビルとも言えない貧弱な
建物でした。

 JALのウェッブに掲載されている歴史を見ると、1951年8月日本航空(株)・JALが設立され、1952年
7月1日、羽田飛行場が日本に返還され、東京国際空港になったと書いてありました。戦後日本の航空
事業揺籃期だった時ですね。

 この写真に写っているクルーたちは、その後の事故には遭わなかったのでしょうか?

 ジェット旅客機の先陣をきったコメット号は、華やかにスタートしたのですが、2年後の1954年、1月と4
月に地中海上空で空中爆発を起こし、コメット号を運行中止するという大きな事件を迎えてしまいました。
その後、英国は国の威信を懸けて事故原因の究明にとり組み、金属疲労による機体の破断が原因だっ
たと判明しました。私が金属疲労という現象を知ったのはこれが最初でした。その後改良されたコメット
4型機が発表されましたが、後発のボーイング707型とダグラスDC-8のジェット旅客機にシェアーを奪わ
れて、終焉を迎えました。

 今から、50年以上も昔の写真の想い出です。 (2006.4.6)
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